東日本大震災と阪神・淡路大震災、2つの震災を振り返る【ママクリ奮闘記】
東日本大震災と阪神・淡路大震災、2つの震災を振り返る
こんにちは、ライター・コラムニストのせきねみきです。今年の3月11日で、東日本大震災から10年という節目を迎えます。私は神戸出身で今は東京在住。東日本大震災と阪神・淡路大震災の両方を経験しました。
10年前、東日本大震災が起こったその瞬間は、東京都港区の汐留シティセンターにいました。高層階にオフィスを構えるクライアントとの打ち合わせを終えて、モバイルバッテリーを充電するために1階の携帯ショップへ立ち寄ると、突然大きな揺れを感じました。スタッフのみなさんが冷静に声掛けをされていて、とても心強かったのを覚えています。揺れが落ち着いてからもショップに少しとどまって情報収集をしました。店内にはテレビモニターがあり、震源地や震度の詳細、津波に関する報道を見ることができたのです。その後、新橋駅から都営バスが運行していることを確認し、会社へ戻ったのが午後4時ごろ。部のメンバーに直接無事を伝え、夫と合流の上、自宅まで3時間ほど歩いて帰りました。
しばらくしてから、休みを利用して宮城県南三陸町のお寺でのボランティアに携わる機会がありました。津波の影響で建物の床下に大量の泥がたまっていたため、それをシャベルでかき出す作業です。建物の壁には、私が手をぴんと伸ばしても届かないほど高い位置に、津波の跡を示す灰色の線が刻まれていました。現地に車で向かう道中、確か宮城県登米市あたりだったと記憶しているのですが、いくつものマンホールが道路から浮き出ている光景を初めて目にしました。
発生から21年が経っても、決して忘れることができない阪神・淡路大震災。あの地震に遭うまでは微震すら経験したことがなく、揺れている最中もこれが地震だということを理解できていませんでした。午前5時46分。ドンと下から上に突き上げる揺れで目が覚め、ベッドに入ったまま窓越しに外を見ると、これまで見たこともないほど鮮やかな赤い空が目の前に。ふと「近くで飛行機が落ちたのかもしれない」という考えが頭をよぎりました。隣の部屋から様子を見に来た母に尋ねたところ、地震が起こったことを教えてもらったのです。
朝起きて私が一番にしたこと、それは浴槽に水をためることでした。今でもなぜ蛇口をひねったのか思い出せないのですが、断水を予想したとっさの判断だったと思います。地震直後はまだ普通に水が出る状態で、あふれる直前まで水を張り、無意識のうちに洗面器にも水を入れていました。その後、外の様子を確かめようと思い庭へ出てみると、お気に入りの緑色の屋根瓦が何枚も落ちていました。
地震直後は使えていた電気やガスも数時間ですべてストップ。そこからは想像以上に大変な生活が待っていました。当時は年頃の女子学生。なによりも辛かったのが、温かいシャワーで髪を洗えないことでした。粉シャンプーを生まれて初めて使ってみたものの、洗った気になれずストレスはたまる一方。あとはほかほかの食事が恋しかった。ガスの炎があんなに貴重なものだったとは……。日々使えて当たり前だと思っていたライフラインが徐々に復旧すると、そのありがたみが身に染みました。
3週間ほどして迎えた初登校日。授業や部活の再開はまだ先でしたが、通常の生活に向けて一歩前進できたことをクラスメイトと喜び合いました。私の通っている学校は体育館が避難所になっていたため、少しでも力になれればと思い、週に数日食事を用意するボランティアに励むように。震災を経験して、人々と顔を合わせられることがどんなに幸せか痛感しました。
この原稿を書きながら震災当時を振り返り、平凡だけれど不自由なく過ごせている今の生活に感謝の気持ちがぐっと込み上げてきました。今5歳の息子もいつかこのありがたみがわかる人間に成長してほしい。私が体験した震災のことを、そろそろ息子に話してみようと思っています。
【執筆者】せきねみき